日野くんの話。

「あっ日野サンだ。日野サ~ン」
 まだこの練馬美術大学に入ったばかりらしいあどけない顔つきの男子大学生二人が、校舎の二階の窓からだらしなく窓枠に体をあずけてだらけている金髪にブリーチした名物大学生に手を振った。
 日野と呼ばれたこの大学生も力なくひらひらと手を振り返す。
 東京といってもその名の通り「練馬区」である。
 「えっ?埼玉県の?」と耳が腐り落ちるほどジョークにされるここは六月ともなれば平気で三十度近く気温が上がることもある。
 とにかく今日は暑い。それなのにこの授業の講師は冷え性だかなんだか知らないがエアコン不要、窓を開ければ十分とぬかしたのだ。
 フケてしまいたいが放校寸前まで留年している日野にこの授業は外すことはできない。生ぬるい風を少しでも受けてなんとか耐えるしかなかった。
 校庭で猫車いっぱいに土のようなものを積んで運んでいるのは彫刻科だ。直射日光を浴びて、さぞ暑いだろう。皆、作業着を半分脱ぐと庭にある蛇口にホースを取り付けじゃばじゃばと水をかぶった。
(イイナ~。オレもあとでやろっと)
 日野は二、三日替えてないシャツを引っ張ってタバコのヤニと汗の臭いに顔をしかめた。大学に入学する際に入った木造アパートにはほとんど帰っていない。風呂も道具を洗うでかいシンクに体を入れて備え付けの石鹸で洗っている。流石に髪までは石鹸では酷すぎると思った生徒にシャンプーとトリートメントを押し付けられた。
 日野は実質七年ほど大学に住み着いていた。もちろんサークルの一室に寝泊まりをしている者や課題に追われて帰れない者も多いので特別注意は受けないが大学生と言うにはフレッシュさが足りない年齢の、ヤニとパチンカスも装備しただらしない金髪が住み着いていると流石に半分名物と化す。
 日野生来の気安さも相まってなんとなく皆に愛されている。
 ふと、日野はその人物に目を留めた。
 深く被っていたキャップ帽を外すと黒髪が陽の光を紫に跳ね返す。作業着のファスナーを半分おろし、彫刻科らしい筋肉の付いた上半身に綿の白いシャツが、シャツと同じくらい白い肌に汗で張り付いていた。
 彼もまた皆と同じようにホースから水を頭から被った。瑞々しい皮膚が透明な液体を弾く様はいけないものを見てしまったかのようにどうにも落ち着かなくさせた。
 日野の熱い視線に気づいたのだろうか、彼が顔をあげる。大きな黒い瞳に空の蒼が輝いた。その色は今まで日野が作り出したことのない色だった。
 誰かに呼ばれたのか、彼はそちらに向かってなにか口を開くと蛇口を閉じさっさと走って行ってしまった。
 遠くなる背を見ながら日野の血がこれまでにないほどに駆け巡った。彼を構成する「色」を思い出し、分解し、再構成する。ああ、なんという鮮やかさ!。
「日野サン、これから一緒にメシ行かねえかって」
 いつのまにか講義が終わったのか、声をかけられた。
「え?ああ、う~ん」
 日野はなにか夢の中にいるような気分にはっきりしない動きで首をひねった。
「イイや、これからすぐやりたいことあるんで」
「なに、いつものパチンコ?」
 集まってきた数人の一人が笑った。
「バッカ、描くんだよ、描くの、すっげー絵描きたいの!」
 日野が椅子から飛び上がるように立ち上がる。そして扉から振り返りもせず出て行ってしまった。
 美大生である。絵を描くのは当たり前だ。だが…。
「日野サンが『すっげー絵描きたい』だって?」
 そこにいた誰もが顔を見合わせた。
 日野は廊下を、階段を素早い獣のように走ってゆく。途中、教授に怒鳴られたがそんなのはどうだっていい。
 日野は今、一番描きたい対象であるあの彫刻科の青年に会わなければならないのだから。

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